2017年03月
2017年03月29日
東京地裁の前で「早く、早く、裁判を始めてくださーい!」
そこで、3月29日12時〜13時、公判前整理手続きが行われる東京地裁の前で、福島原発事故告訴団と福島原発事故刑事訴訟支援団の呼びかけで集会。福島からは子供の甲状腺癌患者が増えている。肺に移転している子供たちは苦しい治療を受け、嘔吐物が放射性廃棄物として処理されているという現況報告。フランスの状況報告も。集会最後は、公判前整理手続き審議中の皆さんの耳に届くように「早く、早く、裁判を始めてくださーい!」とコール。
マイク最後は映画「日本と再生」の監督でもある河合弁護士。昨日大阪高裁が大津地裁の高浜原発運転差し止め決定を覆す判決を出したことにつき、「世界の流れは脱原発。我々の勝利は確か。一喜一憂せず、闘おう。」と
2017年03月06日
旧市街見学 (2)
下左: バルセロナの守護神と言われるとエウラリアのご遺体が安置されている。
下右: エウラリアが13才で殉教したことにちなみ、13羽のアヒル。
広場に面して、ローマ時代の遺跡も
☆王の広場
コロンブスがアメリカを発見して帰国する時、王がバルセロナに来ていたので、コロンブスはバルセロナで上陸、この広場で謁見し航海の報告をしたという。
右はこの広場の壁の銃弾の跡。バルセロナが共和制側で戦ったスペイン戦争で、王制に加担したドイツ空軍の空爆によるもの。
☆地下に残るローマ時代の街
王の広場の下にローマ時代の町の遺跡が発見され、地下博物館になっているそう。
通りからも建物の下を覗けるようになっている。
☆ 半地下の小さなイスラム教会
隠れて集まっていた時期も。
☆コロンブスが上陸した港でランチ
ランチの後、アナハウスに戻り、観光をせずに休んでいた花嫁のお母さんも一緒に市場へ。
夕食は山の家から戻った花婿花嫁と日本に帰る友達でお別れの食事会。私たちは早めに切り上げて帰国準備。いい旅でした。
旧市街を見学(1)
1905年~8年にかけて合唱団のために建設され、現在も使われているコンサートホール。
サン・パウ病院と一緒にアールヌーボー建築様式を伝える建築物として世界遺産に登録。
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ガラス張り部分は最近の建築。内側は喫茶に。
☆四匹の猫(クワトロ・ガッツ)
カタローニア音楽堂のすぐ近くの「4CATs(クワトロガッツ)」でコーヒーで一休み。1896年築。喫茶店かと思ったら奥が広くレストラン。
パリのキャバラレーの醸し出す雰囲気をバルセロナにもと作られたカフェで、芸術家達の溜まり場になった。17才のピカソもここに通うようになり、店内には彼が描いたスケッチやお店のメニュー表も展示されている。
左のイラストもピカソが描いたもの。所有者であっても店頭の看板にしたら使用料を請求されたため看板使用は取りやめ。店内に飾っておくだけなら商業使用にはならず使用料は発生しない。
ここの歴史については、こちらのブログクワトロ・ガッツ が詳しい。
☆カタルーニャ建築協会ビルのピカソの壁画
カタルーニア建築家協会の建物の壁画はピカソの絵。バルセロナのお祭りを描いた楽しい絵。グレーの石を細かく砕いたものを下地として塗り、上に塗った白を削って描いている。
この壁画にはピカソのサインがない。ピカソが描いた原画を忠実に再現しており、出来上がったものを見てピカソ自身がサインをすることになっていた。けれど、スペイン内戦でカタルーニャ地方は共和制側で戦ったが、フランコの求めで参戦したドイツ軍の空爆により敗北。ピカソはフランコ政権に支配されるバルセロナには戻らず南仏で亡くなってしまった。
☆浮世絵のある傘やさん
ヨーロッパのジャポニズムがこんなところにも
2017年03月05日
軽い朝食を取ってからお山を散歩、ランチはイカ墨のパエリア
朝食は花婿のお母様の主導。
起きてくる人は少ないので少しでいい。
起きてきた人が自分たちで食べられるように軽いもの。
ということで、昨日の残りのスープとパンとサラミ。コーヒー、紅茶は各自で。
上に砂糖をかけたような大きなパン1個をオーブンで温めて、数人分を切る。
サラミは数ミリの斜め切り。皮は各自で剥く。
右手に塩味のサラミ、左手に甘いパン。これを交互に食べるのがここの食べ方だそう。
十数人起きてきたところで、お母様も一緒に山の方に散歩。
道端にまだ雪が。
山から戻ると、イカ墨パエリアを戸外で作ってました。
パエリアにはムール貝と死人のトランペットというこの地方の茸がいっぱい。
写真はありませんが、サラダ他に賑やかなテーブル。
今日、帰る車は3台。16時半出発。
私たち3人も婿殿の親類の方に載せていただきバルセロナに。
そうた。帰路、雪で真っ白なピレーネ山脈が見えました。
2017年03月04日
山の家でネギ焼き「カルソッツ」〜バルセロナ3日目
昼食は裏庭で15時から、ここカタルーニャ地方の郷土料理カルソッツではじまりました。
ねぎを収穫するこの季節だけの料理だそう。
泥付きの長ネギの白い部分を焦げるまで丸焼きにし、左手で葉を持ち、右手で紙ナプキンをねぎの葉もとに巻いて握り、一気に下ろすとスルッと焦げた皮が剥げます。皮を向いたねぎの下の方をコップに入れたロメスコソースを付け、ソースが付いた下の方を上を向いた口に入れ、そのまま葉もとまで食べます。ソースはあっさり味で、1人で5-10本も食べてしまいます。
カルソッツ参加者60人、宿泊者35人と決まり、花嫁さんが部屋割り。まず、両親、私達、子供連れの家族の部屋を決め、各室のドアに名前を張り、その後、お友達も手伝って若い人たちの分の部屋割り、足りない分のエキストラベット注文。なんとも忙しい花嫁。
カルソッツを十分楽しんだら家の中に入り、これもケータリングサービスの方たちが作ったチキンとソーセージのバーべキュー。
この日のアルコールは花婿さんの車でバルセロナから運んだ地ビール。
わいわい盛り上がって終わる気配がなく、私と友人は自室で一休み。
こちらでは一日の食事のメインは昼食。昼食にはケータリングサービスを頼んでいるが、夜は頼んでいないらしい。
自室で一眠りして元気になった友達が、
「夕食は私達が作ろう!」
と発案。
友達は調理のプロ。24時間稼働の調理工場の経営者。花婿のお母さんが2日分の夜朝食として用意した食材を確認し、スープ、スパゲッティ、サラダを作ることに。花嫁は肉は食べだないので、スープはお肉を入れる前に取り分け、スパゲティはシーチキンに。。。
私は35人分の食事作りなんて全く自信がない。ジェノベーゼソースとか大量のオリーブの実を使ったこともない。だから専ら、切れないナイフで野菜切り。
とても好評でブラボー!の声。
カルーニア風のパン他は花婿さんのお母さん。
この夕食も深夜まで続き、その後でダンス。会場は1階の倉庫だったような部屋。音響機器は花婿のお父さんの車で持ち込み。日本からレコード持参のJJ2人とJ花婿とでJJは3人。花婿花嫁のあまーいラストダンスは5時。その後、花婿花嫁で音響機器を片付けたとか。
2017年03月03日
記念撮影、結婚式、会食、ダンスパーティ〜バルセロナ2日目
結婚式他の案内はFacebookのイベント情報。日本人向けには花嫁さんがコメント欄に日本語で説明しています。
それによると、挙式当日の予定は、
15時から正装でサクラダラミリアで記念撮影。撮影後、花婿花嫁はロールスロイスで式場へ出発。
17時から市役所で挙式
20時半からレストランで会食
24時からクラブでダンスパーティ
サクラダファミリアで記念撮影はそういうものかと思っていたら、本来、結婚式の正装で中に入ることは禁じられているので、コートを着て入り、中に入ってから脱いでさっと撮影するという。
着物姿のおばさんたちが違反をするわけにはいかないと、私たちは写真撮影後、無事に出て来るのを待って見送ることに。
ところが、生誕の門側から出る予定が、監視員さんに付き添われて「受難の門」から出せれてしまい、おめでたい門出なのに「受難の門」からのスタートに変更。
「生誕の門」の前で待っていた私たちは着物姿で「受難の門」側に走り、若い皆さんと一緒に見送りました。
☆ 結婚式
市役所内の結婚式場は1373年に欧州で初めて民主主義議会が開催された議場だったところだそう。でも、ガイドさんによると、「建物は改修、改修を重ねており当時の議場とは違う。開かれた場所ということでしょう。」とのこと。
式は無宗教、牧師の言葉のような訓示は、スペイン語ではなくカタルーニア語。その後、日本語、英語でも。
花嫁の衣装は花嫁さんが自分の希望を伝えて知人のデザイナーが作ったてもの。ブルーの部分は黒地にウェルト刺繍。「胸から肩が黒い生地」だと言われ、花嫁のお母さんも私たち心配していましたが、とても似合っていました。
☆ 結婚式後の会食@レストランLa Mar Salada
「高額なホテルの食事より、安いお値段でよりおいしい料理を召し上がってほしい」と花嫁さんが選んだお店。お店の説明や特別メニューの解説を加えたメニューも花嫁さんさんの手作り、花婿さん曰く、「僕は会社があるので印刷したものお切っただけ。私達には日本語のメニューが用意されていましたから、カタローニア版と英語版も作ったのでしょう。
80人までというスペースに100席作ったので若干狭い。
3月3日なので雛飾りも。
左から、生ガキ、アーテチョーク・チップス、小イワシのマリネ・・・・
さて、バルセロナ式宴会です。
席につくとすぐに食前酒が注がれる。食前酒と言っても普通のワイングラスで若干甘いワイン。飲んでいるうちに皆さんが揃い、お料理も出てくる。一斉に出てくるわけではなく、出てきた人から食べ始める。「いただきます」の習慣はなく、開会の掛け声はない。ひときり談笑し、酔いも回り始めたころに何方かが立ってご挨拶。ワイワイガヤガヤで聞こえない。さらに盛り上がって来た頃、何方かが立ち上がりグラスを上げて「乾杯!」「乾杯!」乾杯の後は延々と談笑。初めから終わりまでお酒はワインのみ。ビールがいいとか、ウィスキーいいという人はいない。
開会の掛け声がないようにお開きの声も上がらない。小さなお子様連れの方は少し早めにお帰りになったようだけれど、24時近くになって談笑が続いている。
ダンスパーティで最初のダンスを踊る花婿花嫁が先にレストランから移動し、若い人たちが続いたので、私たち付いて行く。私たちは花婿花嫁のダンスを見て30分足らずで抜け出して帰ったけれど、最後の人たちは朝の5時半まで踊っていたそう。
2017年03月02日
挙式の前日の観光~バルセロナ1日目
挙式の前日は花嫁のお母さんは打ち合わせ等で忙しいので、私達2人は日本人のガイドさん(日本の大手企業を早期リタイア、こちらの国のガイド資格を取得、日本とこちらの両方の年金を受給、年金受給者は医療費は全額無料とか)に半日4時間のガイドをお願いする。
こちらの昼食は14時からなので、10時から14時でサン・パウ病院とサクラダファミリアを見学。ランチはガイドさんも一緒に。その後、2人でピカソ美術館を見学。
夕食は花嫁花婿、花嫁さんのご両親、花嫁さんのお友達など日本から来たメンバー等で会食。
1902年から30年に建築され、1916年から病院を開業、1997年に世界遺産に登録(ピンクの線の内側)。各棟はタイルで内装されたされた美しい地下道で接続されています。
病院としての設備が古いため、2009年に病院機能を隣接地に近代的病院に移され、現在は、修復しながら一般公開されています。また、病院であった施設の意図を踏まえ、国連および欧州連合のプログラムと連携し、持続可能性、保健、教育の領域の知識センターとして使われています。
左は病棟、男性患者用と女性患者用の2棟。重病患者用の個室はあるが全員一室の大部屋、丸い部分は談笑等気分転換するスペース。
右の写真は各棟に囲まれた庭。香りのよい花、薬草、ミカンの木ほか、患者たちが癒される庭に。(写真はWikipediaより)
下は入場者に配布された日本語ガイドです。クリックで大きくなります。
☆サクラダファミリア
1882年にビリャールの設計で着工、翌年アントニ・ガウディが引き継いで設計を一から練り直し、1926年に亡くなるまでライフワークとしてサグラダ・ファミリアの設計・建築に取り組んだ。
2005年、建設途中ながら、生誕のファサードの部分がアントニ・ガウディの作品群としてユネスコの世界遺産に登録された。
2026年完成予定(完成まで300年と言われてきたが、先端技術の導入で150年で完成を目指すことに)
建築中のサクラダファミリア全景
完成している生誕の門
この建物を支えている亀
内装はほぼ完成しています。Wikipediaにはこれだけですが、大きな柱のデザインの奇抜さ、ステンドグラスの量の多さには驚かされます。祈りの場というより。。。。
ランチはガイドさん薦めの1835開業という古ーいお店。
写真がないのでお店の絵はがきです。
入り口からバーカウンターのようなところを通ると厨房。厨房が吹き向けになっており、2階席から厨房や吊るされた肉などが見える。
生まれる前の豚を焼いたものが名物と言われ初体験、
まずくはないけれど、止めておけばよかった。。。
☆ピカソ美術館
旧市街の裏通り、車も入りそうにない細い道にある。
日本語音声ガイドを借りて見学。
ふつうの絵を描いていた若い頃の絵を見てみると、親しみが湧いてくる。こういう絵を描いていた人が次々に変わっていく過程を見ると、変わる度に「何があったのか」と。
2017年03月01日
友達の娘さんの結婚式でバルセロナに行きました。
Ana guest hause に連泊。
サクラダファミリアや旧市街は徒歩圏。
https://www.google.co.jp/search?q=ana%20guest%20house%20goa&tbm=map
3人1室、朝食付で1人35ユーロ、日本から来た花嫁のお友達は1人1室45ユーロ。
朝食は果物、ハム、ソーセージ、チーズ、ナッツ類、ヨーグルト、パン数種、チョコレートケーキ、コーヒー、オレンジジュース。毎日ほとんど同じですが、どれも美味しく朝食としては充分。
上下階ふたつのコンドミニアムによるゲストハウス経営で、上の階のリビングダイニングが食事室、メインベットルーム他の全個室が客間、一部の部屋は共用バスルーム。私達の部屋は下の階のリビングダイニングだった部屋の一部を仕切ってバスルームにしたもの。リビング部分にエクストラベットを追加。他の個室等は運営者が使用。
運営者のアナさん母娘はフレンドリーで心配りがありお薦めのゲストハウスですが、アナさんによると、近々ここを閉め、イギリスでもう少し大きなゲストハウスハウスを経営されたいそう。理由は、バルセロナは規制が厳しくイギリスの方が緩いから。