2015年02月11日

今日は「建国記念の日」なので確認しておこう

mr,dpros泥さんのface bookのシェアです。
 私は歴代天皇の諡(おくりな)を暗唱できる。そこいらの右翼にはそんなことできないだろう。もちろん古事記は原文で何度も読んだ(原文は漢文)。日本書紀は長いのでさすがにそういうわけにはいかなかったが。

 2月11日は、初代天皇・神武が即位した日だとされている。これは虚構だからナンセンスだという人もいるが、私はそうは思わない。むしろ、2月11日の意味を国民みんながきちんと知るべきだと思っている。虚構・伝説かどうかはどうでもよい。天皇家発祥の時に起きたことを、天皇家自身が古事記にどのように記録しているか、そのことを知るべきだと思うのだ。

 戦時中に「撃ちてし止まむ」という標語があった。「撃ちて し(から) やまむ(終わろう)。文法的にはこういう意味だ。「撃って 終(しま)おう」と同じことだから、「やってしまおうぜ」、すなわち「やっちまおうぜ」という現代語がふさわしいだろう。
この言葉は神武天皇が歌った歌詞の一部だ。こんなエピソードだ。
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 神武たちの軍勢が奈良に入って進軍していくと、忍坂(おさか)という土地に、強い部族が結集していた。神武の発案で彼らを和睦の宴席に招き、神武の歌を合図に殺してしまうことになった。現代語に直せば、こんな歌だ。

 「忍坂の大きな家に人がたくさんやってきて、人がたくさんいるけれど、力みなぎる久米族の若者が、こん棒を持って、力みなぎる久米族の若者が、石斧を持って、やっちまおうぜ(撃ちてしやまむ)」

 こう歌って、一斉に撃ち殺した。神武軍の業績は、こうしただまし討ちによる大量虐殺や、にくい敵の遺骸をさんざんに斬り散らかして捨てたなどという惨殺、暗殺の連続だ。 
 こうした行為を誇りやかに書き連ねたあと、古事記は記す。

 「こうして、荒々しい神たちを説得して平定し、服従しない人らを退け、追放して、畝傍(うねび)の白樫原(かしわら)の宮に座して天の下を治めた」
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 これが天皇家の栄光の戦いであり、日本国の始まりであると、古事記は麗々しく記している。
 せっかく2月11日を建国記念の日に定めたのだから、文科省は全国の児童生徒に古事記の本当の内容を教えてはいかがか。

 「すごいだろう、こうやって日本は誕生したのだよ、お人好しの現地人を上手にだまして殴り殺して全滅させちゃうなんて、なんとクールなんだろう。こうして奈良県の南半分を征服して、初代の王として即位したのが、2月11日のことなんだよ、誇らしいよね、自然と愛国心がみなぎっちゃうよねえ」と。

mr,dpros上記の記事に繁 周作さんがくれたコメントに感心した。

歴史には明るくないのですが…。
もし神武天皇が実在し、即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)」が史実・事実だとしても、そんな時代には当然天下統一もされてなく、「日本」という名称も無かった訳ですから、それを「日本の建国日とするのはどう考えても無理がある」と私は思います。


 たしかにそのとおり。
 国はそういうツッコミに備えて、こう説明している。

 「建国記念の日は、この日に日本が建国されたという記念日ではありません。いつかわからなくても建国されたのはたしかなので、そのことを記念する日なのです。建国記念日ではなく建国記念の日というのはそのためです」

 ふん、それならなにも天長節を選ぶ必要ないがな。

 ともかく、繁さんのツッコミはことの本質をついている。
 じつは、古事記や日本書紀の神話にでてくる神様と、現在の天皇家は、ストレートにつながっていない。
 古事記の記述を素直に読めば、そうなる。

【初代王がふたり】
 
 古事記には第一代の王がふたりいる。

 1人目はニニギの命。祖母に当たる天照大神から、日本列島を支配せよと命じられて高天原(たかまがはら)から天下ってきた人だ。

 「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ」

 このように命令されて、九州にやってきたのがニニギだ。
王として統治せよといわれて来たのだから、初代の王なのだ。
ところが、その九州から出て奈良に王朝を開いた神武もまた初代の王だという。
ひとつの国に第一代の王はひとりきりのはずだ。
これはどうしたことか。

 論理的に考えるなら、二人が建てた国はそれぞれ別の王朝と見るしかない。
ニニギの建てた倭国が宗主国、神武はそこから分かれた植民国家の王なのだ。
 神武が奈良に分国を建てた後も、神武の故郷である九州にはニニギの国が堂々とそびえていたに違いない。
その国が歴史のどこかの時点で滅び、分国が日本の支配者となった。
それは、西暦701年だ。

【初代天子は文武天皇】

 天皇は天子ともいうが、天子ならば元号をもつはずだ。 はじめて年号を建てることを「建元」という。
天皇家の建元はいつなのか。
なんと西暦701年の「大宝」なのだ。 

 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』文武天皇紀)
 
これ以前は天皇ではあったが、年号を持たなかったのだから天子ではなかったことになる。
素直に読めば、天皇家が年号を立てて日本の本当の支配者になったのは701年なのだ。

 しかし最初の年号は「大化」だと学校で習った。
たしかに、大宝以前に大化などの年号がある。
大化の年号のいきさつはこうだ。

 「皇極天皇の四年(645年)、改めて大化元年とする」(孝徳天皇即位前紀)

 「改めて」?
これでは最初の年号より前に年号があったことになる。んなアホな。
日本書紀の記録には矛盾があって、何かをごまかそうとしている。
大化のあと年号が途切れてしまうのも不自然だ。

 では年号を持った天子はどこにいたのか。
それがニニギの国、九州だ。現地の寺や神社、古記録には、当たり前のように見慣れない年号が記録されている。九州年号という。

 その国は白村江の戦(663年)で唐・新羅連合軍にボロボロに敗れた。
共に戦った百済と倭の水軍は4戦全敗、400隻の船が焼かれて全滅し、多数が水死したり降伏した。
百済はほどなく滅亡した。
大遠征軍が全滅し、倭国も瀕死だったろうと思われる。
ところが天智天皇は戦いに参加しておらず、配下の豪族も無傷だ。
しかも大和朝廷はこの時点から大発展し、38年後には自前の年号を建てるに至る。ほとんど同時に、九州から年号史料が消滅する。新しい年号が作られなくなったのだ。
そう、ニニギの倭国は敗戦で衰弱したあげく、大和朝廷に国を乗っ取られ、滅亡したのだ。
 
すると、本当の建国は701年。この年にはじめて年号が建てられ、はじめての律令である大宝律令が交付されている。
その翌年に遣唐使が中国に行き、倭国に変えて日本と言う国号が中国の則天武后から認められた。
これが日本の始まりである。歴代天皇の名が中国史書に現れるのも、これ以後だ。

 神武が天皇だったというのは、のちの世がそのようにしただけのことであって、つまり2月11日は何の意味もない日だったことになる

kumie62 at 13:13│Comments(0)TrackBack(0)clip!憲法 | 政治

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