国際支援
2015年10月17日
ミンダナオ図書館から季刊誌が届きました。
*
画像は表表紙と裏表紙だけです。
活動内容はミンダナオ図書館のホームページをご覧くいださい。
裏表紙に援助方法が書かれています。
私は少額の自由寄付をしているだけですが、森林環境支援、保育所・下宿小屋建設支援、子供個人を対象にした小学生の里子、高校生、大学生へのスカラシップという支援の方法のもあります。
画像は表表紙と裏表紙だけです。
活動内容はミンダナオ図書館のホームページをご覧くいださい。
裏表紙に援助方法が書かれています。
私は少額の自由寄付をしているだけですが、森林環境支援、保育所・下宿小屋建設支援、子供個人を対象にした小学生の里子、高校生、大学生へのスカラシップという支援の方法のもあります。
2015年09月20日
叔父・日野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)
昨日の東京新聞夕刊の中村医師のインタビューを、古林さんが全文書き起こされたのでシャアさせていただきました。是非、読んでください。
最初に、一部抜粋。
●「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。
もっと複雑で汚くてあざとい」
以下は中村哲氏の著書(『天、共に在り』)から
●〈利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる〉
●〈私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる〉
以下は上記新聞の書き起こしです。
==================================
叔父・日野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)
盲信 今こそ問い直せ
〈死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるし下さい。さやうなら〉
この遺書を書いたのは、芥川賞作家の火野葦平(あしへい)。一九六〇年一月、自宅の書斎で睡眠薬を飲み、五十三歳で命を絶った。
その火野葦平の甥(おい)っ子にあたるのが、アフガニスタンでの人道支援活動で国際的に高い評価を受けるペシャワール会現地代表の医師、中村哲(てつ)さん(六九)だ。
「葦平は戦争作家と呼ばれることを嫌った」と振り返る。自死した伯父への思い、集団的自衛権行使や安保法制で進路を変えようとしている日本をどう感じているか。今夏、一時帰国した中村さんに聞いた。
※ ※ ※
紛争地アフガニスタンで三十年。ソ連の侵攻、「対テロ」名目の米英軍による空爆、武装勢力の衝突…。
中村さんにとって「戦争と平和」は、日々肌身で感じる現実そのものだ。難民や貧困層への医療活動だけでなく、二〇〇〇年からの大干ばつで飢餓状態となった住民を救うため井戸掘りや用水路建設事業を続ける。
伯父である葦平は、陸軍の報道部員として日中戦争に従軍した。銃を担いで泥の中を歩いた記録を小説にしたのが『麦と兵隊』などの兵隊三部作。
当時、大ベストセラーになった。
「葦平は無口だが、えらそうなところは全然なかった。
酒を飲むとユーモラスな好人物だった」という。ところがそんな豪気な楽天主義者の顔は外側だけで、繊細な心に戦争が暗い影を落としていた。
「米英撃滅と叫んでいた軍人が、今度は進駐軍相手のバーを開く。敗戦を境に、多くの日本人は器用に転身した。でも、葦平は十年以上悩み続けた。この世で何を信じればいいのか。
そんな耐えがたさが『漠然とした不安』という遺書の言葉になったのかもしれない」と中村さんは推し量る。
葦平は戦後、戦時中の作品を、一字一句赤線を引いて直した。当時、軍部の検閲で書けなかった中国人捕虜を銃殺した場面も書き足した。血まみれの遺体の山で、まだ息のある兵士が撃ってくれと葦平にしぐさで訴えた。〈急いで、瀕死(ひんし)の支那兵の胸に照準を附けると、引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった〉(『土と兵隊』)
遺作『革命前後』では、自らの戦争責任を問うた。
作品に登場する戦争作家は「あんたは戦地で文章書いて大もうけ」と、元兵士に批判される。「逆に言えば、戦後の日本人の多くは葦平のような徹底的な悩み方をしなかった」と中村さんは感じる。「大震災が起きたと思ったら、オリンピックで騒いでいる。帰国するたび、違う惑星に来たような気がする。日本人はみんなで動いて、その動きに乗れない人間をはじく」
____________
戦闘が終わっても、心の傷は死ぬまで消えない。伯父の自死を見て、戦争が破壊するのは体だけではないと実感した。アフガンでも米兵や武装勢力、住民の別を問わず、人々が心を壊される過酷な現実を見た。
だからこそ集団的自衛権行使や安保法制をめぐる国会論議の「ゲームのような軽さ」にがくぜんとする。
「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい」
安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った。
安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。
そんな思いを、近著にこう書いた。
〈利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる〉
〈私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる〉(『天、共に在り』)
(出田阿生)
==================================
追記:
私・古林は学生(大学院生)の時、インドを旅したことがある。
東から西へ。
可能ならアフガンまで、と思っていた。が、ソ連侵攻の話が伝わってきていた。ニューデリーのJALのオフィスに立ち寄ると、ちょうど外交官がアフガンから撤収してきたという話をしていた。アフガンを断念した。
集団的自衛権行使の名目でソビエト連邦が侵略したのだった。
(ソ連にとってのベトナム戦争だ。)
米国は対ソ政策で反ソ勢力を支援。支援された人々が今のタリバンである。
大国都合による侵略がその後の中央アジアの紛争を引き起こしている。
集団的自衛権行使の例のほとんどは大国都合の内戦干渉・侵略行為にほかならない。安保法制により、日本はそこに加担する可能性が高まってしまった。
戦争によって経済を維持するような国になってしまう前に何とかしなければと思う。
最初に、一部抜粋。
●「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。
もっと複雑で汚くてあざとい」
以下は中村哲氏の著書(『天、共に在り』)から
●〈利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる〉
●〈私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる〉
以下は上記新聞の書き起こしです。
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叔父・日野葦平に向き合う 中村哲さん(アフガン支援の医師)
盲信 今こそ問い直せ
〈死にます。芥川龍之介とはちがふかも知れないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるし下さい。さやうなら〉
この遺書を書いたのは、芥川賞作家の火野葦平(あしへい)。一九六〇年一月、自宅の書斎で睡眠薬を飲み、五十三歳で命を絶った。
その火野葦平の甥(おい)っ子にあたるのが、アフガニスタンでの人道支援活動で国際的に高い評価を受けるペシャワール会現地代表の医師、中村哲(てつ)さん(六九)だ。
「葦平は戦争作家と呼ばれることを嫌った」と振り返る。自死した伯父への思い、集団的自衛権行使や安保法制で進路を変えようとしている日本をどう感じているか。今夏、一時帰国した中村さんに聞いた。
※ ※ ※
紛争地アフガニスタンで三十年。ソ連の侵攻、「対テロ」名目の米英軍による空爆、武装勢力の衝突…。
中村さんにとって「戦争と平和」は、日々肌身で感じる現実そのものだ。難民や貧困層への医療活動だけでなく、二〇〇〇年からの大干ばつで飢餓状態となった住民を救うため井戸掘りや用水路建設事業を続ける。
伯父である葦平は、陸軍の報道部員として日中戦争に従軍した。銃を担いで泥の中を歩いた記録を小説にしたのが『麦と兵隊』などの兵隊三部作。
当時、大ベストセラーになった。
「葦平は無口だが、えらそうなところは全然なかった。
酒を飲むとユーモラスな好人物だった」という。ところがそんな豪気な楽天主義者の顔は外側だけで、繊細な心に戦争が暗い影を落としていた。
「米英撃滅と叫んでいた軍人が、今度は進駐軍相手のバーを開く。敗戦を境に、多くの日本人は器用に転身した。でも、葦平は十年以上悩み続けた。この世で何を信じればいいのか。
そんな耐えがたさが『漠然とした不安』という遺書の言葉になったのかもしれない」と中村さんは推し量る。
葦平は戦後、戦時中の作品を、一字一句赤線を引いて直した。当時、軍部の検閲で書けなかった中国人捕虜を銃殺した場面も書き足した。血まみれの遺体の山で、まだ息のある兵士が撃ってくれと葦平にしぐさで訴えた。〈急いで、瀕死(ひんし)の支那兵の胸に照準を附けると、引鉄を引いた。支那兵は動かなくなった〉(『土と兵隊』)
遺作『革命前後』では、自らの戦争責任を問うた。
作品に登場する戦争作家は「あんたは戦地で文章書いて大もうけ」と、元兵士に批判される。「逆に言えば、戦後の日本人の多くは葦平のような徹底的な悩み方をしなかった」と中村さんは感じる。「大震災が起きたと思ったら、オリンピックで騒いでいる。帰国するたび、違う惑星に来たような気がする。日本人はみんなで動いて、その動きに乗れない人間をはじく」
____________
戦闘が終わっても、心の傷は死ぬまで消えない。伯父の自死を見て、戦争が破壊するのは体だけではないと実感した。アフガンでも米兵や武装勢力、住民の別を問わず、人々が心を壊される過酷な現実を見た。
だからこそ集団的自衛権行使や安保法制をめぐる国会論議の「ゲームのような軽さ」にがくぜんとする。
「日本を守ると連呼するが、現代の戦争はもはや国同士の戦いですらない。もっと複雑で汚くてあざとい」
安保法制の根拠として、周辺国の脅威が盛んに語られることにも違和感を覚える。「武力行使が身を守ると信じるのは、妄信そのもの」と確信するからだ。運営する診療所がかつて襲撃されたとき、中村さんは「死んでも撃ち返すな」と仲間に言った。報復の連鎖を断ったことが、後々まで自分や仲間、事業を守った。
安全保障とは地域住民との信頼関係にほかならない。
そんな思いを、近著にこう書いた。
〈利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことができる〉
〈私たちにとって平和とは理念ではなく、現実の力なのだ。私たちはいとも安易に戦争と平和を語りすぎる。武力行使によって守られるものとは何か、静かに思いをいたすべきかと思われる〉(『天、共に在り』)
(出田阿生)
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追記:
私・古林は学生(大学院生)の時、インドを旅したことがある。
東から西へ。
可能ならアフガンまで、と思っていた。が、ソ連侵攻の話が伝わってきていた。ニューデリーのJALのオフィスに立ち寄ると、ちょうど外交官がアフガンから撤収してきたという話をしていた。アフガンを断念した。
集団的自衛権行使の名目でソビエト連邦が侵略したのだった。
(ソ連にとってのベトナム戦争だ。)
米国は対ソ政策で反ソ勢力を支援。支援された人々が今のタリバンである。
大国都合による侵略がその後の中央アジアの紛争を引き起こしている。
集団的自衛権行使の例のほとんどは大国都合の内戦干渉・侵略行為にほかならない。安保法制により、日本はそこに加担する可能性が高まってしまった。
戦争によって経済を維持するような国になってしまう前に何とかしなければと思う。
2015年02月18日
フィリピン・ミンダナオで戦闘が勃発 求む、緊急支援!
>政府との和平交渉を推進しようとしているMILFモロイスラム解放戦線と、そこから分離して、和平交渉を拒否して あくまでミンダナオの独立を求めて、戦闘を続けようとする、BIFFバンサモロイスラム自由戦士との内部抗争。
>拡大の危険も大きいので、住民は、急きょ町に近い場所に避難した。
国軍は、様子見をしている状況で、参戦はしていないが、 国軍が参加するとなると、状況は良くない
・・・・・
当ブログでもご紹介したミンダナオで平和構築活動として子供図書館を運営されている松居さんが、現地調査を兼ねて炊き出しに行き、難民の状況をサイトで紹介しています。
http://www.edit.ne.jp/~mindanao/mindanewsdaiary.html
難民がまだまだ増えそうな状況。
NGOの支援は調査が入ってからになり時間がかかるそうで、松居さんが 「緊急支援の自由寄付願い」をされています。
1万円で、1ロール100メートルの シートが買えます。5メートルで切っていくので20枚がとれ、20家族を救えるのだそうです。
2014年09月06日
現地語でカンボジアの伝統医療の本をつくろう
カンボジアの小学校に薬草園を作るプロジェクトに参加しました。進捗状況の報告にはいつも子供達の笑顔があり、報告いただけるのが楽しみでしした
今度は、英語、日本語の伝統医療の研究記録をクメール語の本にするプロジェクトがスタートしました。途上国の人たちが安易に現代医療に頼るのは残念ですから、現地語の伝統医療の本は作るのは大賛成。今度のプロジェクトにも寄付参加しました
プロジェクトのサイトはこちら
今度は、英語、日本語の伝統医療の研究記録をクメール語の本にするプロジェクトがスタートしました。途上国の人たちが安易に現代医療に頼るのは残念ですから、現地語の伝統医療の本は作るのは大賛成。今度のプロジェクトにも寄付参加しました
プロジェクトのサイトはこちら